忘れ形見(わすれがたみ)
「五歳も年下の男になんぞ娘をやれるか」と最後まで結婚に反対していたとは思えないほど、マリの父は今ではすっかり様変わりしていた。年下の夫とマリの間にできた孫娘カオルの側から父は片時も離れようとせず、マリが仕事から帰ってきてさえ、孫を可愛がるのに誰に構うことなどあるものかと言った調子でカオルを独占する。母が生きていたら、孫に首ったけになっている父の姿を笑うだろうなと思いながら、マリは炬燵(こたつ)に足をくぐらせ、冷えた缶ビールをグラスに注ぎいれた。白い泡がグラスの淵ギリギリになったところで一気に飲み干し、はあっと嘆息する。一日を一瞬で忘れられるひとときだ。その時、濡れた髪を包むために頭にぐるりと巻き付けたていたタオルがほどけそうになり、マリは慌てて両手で頭を抑えた拍子に思わず大きなゲップを漏らしてしまった。
「ママはお下品でしゅねー。カオルちゃんはママの真似なんかしたらダメでしゅよ」
父の非難めいた言葉にマリはアハハと笑って、空になったグラスへビールを注いだ。
父に身体をくすぐられているカオルがさっきから身をよじって喜んでいる。マリはカオルの顔を眺めながら、そう言えばカオルが一番最初に覚えた言葉は「ママ」ではなく、「ジイジ」だったなと思い返すと、さすがに寂しさとも虚しさとも言いようのない或る種の感情が沸きあがってきたが、わずかな時間しか顔を合わせないカオルが、一日中そばにいてくれる父へなつくのは当然なことだし、夜勤も多い看護士の仕事では子供の預け先などそう簡単には見つからないのだからと心に言い聞かせ、それ以上深く考えこむことは辞めにした。父の赤ちゃん言葉を背に今夜はもう1本飲もうと立ち上がったマリを父が後ろから呼び止めた。
「家の中じゃ裸足で歩くなって言ってるだろう。靴下を履け、靴下を。カオルちゃんに水虫が移ったらどうするんだ。まったくオマエも水虫なんか飼ってるようじゃ、いつまでたっても再婚なんか出来ないな」
ふん、と鼻先で返事をすると、再婚なんかしないわよと言う言葉を飲み込んで、マリはちらっと裸足の指先を眺めた。指の股の皮膚が乾燥して所々めくれ上がっている。亡くなった夫から移された水虫が今もマリの足の指で生き続けていた。そろそろ治療しなくちゃねと思いながら、マリは冷蔵庫へビールを取りに行った。
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