« フグの魅力 | トップページ | 市丸のエサやり »

2006年5月18日 (木)

別れの言葉

 私が母の声を最後に聞いたのは、小学5年生のあの日の朝、玄関で見送られた時にかけられた「行ってらっしゃい、気をつけてね」だった。4年も前のことなのに今でもはっきり覚えている。3時間目の算数の授業も終わりかけ、後少しでお昼という頃、教室の戸が開き、教頭先生が入ってきた。教室がざわめく。教頭先生は担任の先生へ何かを耳打ちするとすぐ出て行った。私は先生に呼ばれ、周囲の視線を浴びながら教壇へ近づいていくと「お母さんが交通事故に遇ったからすぐ家に帰りなさい」と哀れむような面持ちで言われた。帰宅途中、何かとても嫌なものが背中に覆いかぶさってくるような気がして急いで帰った。が、家には誰もいない。もしかしたら、これは兄が仕掛けたイタズラなのではないか、玄関を開けた兄が「引っかかったな」と笑う顔が浮かんできたが、兄も母もいつまで待っても姿を見せなかった。母のいない家に一人でいるのがなんだか気持ち悪くて、胸のあたりに異物がつかえた感じがしてきた。しばらくして家のドアが開き、思わず「お母さん」と叫んだが入ってきたのは背広姿の父だった。重苦しい顔をした父が「お母さんが・・・」と呟き、私の肩を強くつかむと「病院へ行くぞ」と言って玄関の前で待たせているタクシーへ乗りこんだ。病院へ向かう間中、母が死んだらどうしよう、と考えたくもない現実を前に私は泣きたいのを我慢して父の背広の裾をつかんでいた。-------
 あれから母は意識が回復することなく入院していた。私は中学生になったが、学校の帰りには必ず病院へ立ち寄り母へ囁き続けた。今日も友達から借りたCDのこと、兄と喧嘩したこと、昨日も父が酔って帰ってきたことなどを話してみたが、母は喉に繋がっている人工呼吸器のチューブからくぐもった呼吸音を発するだけで反応はなかった。私は母の細くて白い手を取った。この前切った爪が少し伸びている。それでも構わず母の爪を切り、ヤスリで整え、先程買ってきたばかりの薄桃色のマニキュアを両手の爪に丁寧に塗っていった。病室を覗きに来た看護婦さんが「奥さん良かったわね、娘さんにキレイにしてもらって」と微笑んで出て行く。私は母の胸に耳を押し当てた。確かに伝わってくる鼓動を聴きながら、明日になったら母の心臓が誰かの身体の一部になると思うと、とめどもなく涙が溢れてきた。私は母へ最後の言葉を囁いた。「起きてよ、お母さん」と。

tohyouneko.gif
掌小説も小説ランキングに参加しています。面白いと思われましたら猫をクリックして是非投票して頂けますようお願い致します!

|

« フグの魅力 | トップページ | 市丸のエサやり »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/120709/10116929

この記事へのトラックバック一覧です: 別れの言葉:

« フグの魅力 | トップページ | 市丸のエサやり »