2011年7月 1日 (金)

オヤジと女の子-女の子編

もうイヤ。なんで私だけこんな思いをしなきゃいけないの。いつも、いっつもオヤジの後始末ばかり。カンベンしてよ。もともと無理だったんだってば。お金もない、人脈もない、コネもない、そんなんで起業するなんて。それなのにオヤジったら「必ず成功してみせる」とか「1年後には上場する」とか、そんな寝言みたいなことを繰り返すだけ。ハッキリ言ってバカとしか言いようがないのよね。文句を言いたいのは公庫と銀行。たった2枚程度の事業計画書を持ってハッタリまくしたてるオヤジなんかに無担保で融資しちゃって。あの時、貸さずに断ってくれたら、こんな思いをしなくてもよかったのに。

この間のリスケの話だってそう。銀行に泣きつくどころか「いまお宅がリスケしてくれなかったら、うちは来年マザーズに上場できないでしょ」だなんて。聞いてて恥ずかしいったらありゃしない。その皺寄せであたしがどんなに迷惑を被っているのか、オヤジはこれっぽっちも考えてくれない。銀行の返済とオヤジの新規事業の投資のために、いまどき一日の食費を300円でやり過ごして、買いたいもの一つ買えず、友だちと遊びに行ったりも出来ない、そのうえ朝から夕方までバイトして稼いだお金はオヤジに持っていかれ、家に帰ってきたら、オヤジの会社の手伝いを無償でやってる。あたしって、いったいなんのために生きてるんだろう。起業して3年経てば少しは落ち着いた生活を送っていると思ったけど、落ちつくどころか、辛いわ苦しいわの連続。こんな生活だったら全部放り投げてしまいたい。ああ、また胃が痛くなってきちゃった。だって、あたし女の子なんだもん、強くなんかなれないよ。女の子は漢方胃腸薬の顆粒を喉に流し込み、水とともに一気に呑みほし、ベッドへ横になり目を閉じた。

翌朝、目覚めた女の子は気持ちが明るく爽やかになっていることを感じた。昨夜の胃の痛みもすっかり消えている。今日も一日300円の食費しかないけれど、これもすべては夢のため。「来年こそ上場するぞ、おおー!」と声高らかに一吠えすると、女の子の影は消え去り、いつものオヤジ女に戻っていた。

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2011年1月22日 (土)

オヤジと女の子-オヤジ編

オヤジが叫ぶ。「来年はマザーズ上場だ」「売れ、売って売って売りまくれー」「マザーズの次は東証だ」・・・興奮しているオヤジは根拠のない言葉をマシンガンのように発する。社内でも社外でも気合が入れば、いつも大声でオレが社長だと肩で風を切り、財布に千円札1枚しか入っていなくても100万円持っているような勢いを周囲にみせつける。オヤジは自分は社長になるべく生れてきた人間だと思って疑わない。

先日もオヤジは銀行で行内に響きわたる大声で吠えまくっていた。
「いまお宅がリスケしてくれなかったら、うちは来年マザーズに上場できないでしょ」

若い銀行員はオヤジの顔を見たときにアリアリとした言葉を顔に浮かばせていた。
「この間融資したばかりで、目先の金も返済できないくせにマザーズに上場なんて夢みたいなことを言ってるんじゃないよ。バカじゃないか、こいつ」
けれど若い銀行員なんか、はなたれ小僧にしか思っていないオヤジは更に大声でわめく。
「うちが上場しなかったら、どうしてくれるの、えっ? あなたに責任取れるの?」
静まりかえった行内とはいえ窓口に来ているお得意先の顧客が何人もいる。その顧客から見れば、まるで自分が不始末をして怒られているような言われ方をされているように見える。若い銀行員は悔しさで顔を真っ赤に火照らせた。場のまずい雰囲気をみてとったのか、すかさず支店長がでてくる。

「まあまあ、社長、ここは落ち着いてくださいよ」と言ってオヤジをなだめすかす。
オヤジはこうして支店長を相手に、会社の借金が延滞してしまうかと思われた直前で、当面利息だけ払うという条件で銀行をねじ伏せた。オヤジの辞書には不可能という言葉はない。が、目先の資金繰りにはいつも気を揉んでいる。

銀行を後にしてオヤジの肩には疲れの山がズンと押し寄せ、のしかかった。けれどオヤジは疲れたフリなど見せず、相変わらず肩で風を切りながら、目の前にそびえる高層オフィスビルを前にして鼻で笑う。
「ふん、なんだこんなビル。高層ビルにオフィスを構えたって言ったって所詮は借り物のオフィスじゃないか。そこにいるオマエら、今にみてろよ、ここにドカンと、うちの自社ビル建設して、テレビ局が競って取材にくるような素晴らしいオフィスを構えるからな。The world is my oyster.」と。

今年も明けたと思ったらもう22日も過ぎてしまいました。お餅と黒豆と伊達巻きとかまぼこは食べましたが、栗きんとん・数の子・田作りは食べ損ねてしまいました。と、食べ物の話はさておき、今年も気合をこめて話を書いていきますので、応援のクリックをおひとつお願いもうしあげます!

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2008年8月18日 (月)

園学(そのがく)のチャーリー

 チャーリーの隣りが空いている!バスに乗り込んだまどかは、吊り革に捕まって文庫本を読んでいる男子高校生の隣りの場所へいち早く移動した。彼はまどかが高校入学以来2ヶ月間、通学のバスで乗り合わせている園学高校の生徒で、いつも同じ時間のバスに乗ってくる。名前も学年もわからない彼のことを、まどかは密かに「チャーリー」と呼んでいた。チャーリーと過ごす朝の10分間は、同じ空間に一緒でいられる小さな幸せと、見つめるだけで何も出来ない切なさが重なり合って訪れる時間だった。いつか、チャーリーと隣り合わせになったら話しかけてみよう、そう思ってはいたものの、現実に隣り合わせになってみると、180センチはありそうな細身のチャーリーを見上げて、しかも読書を中断させるような口実など何もない。それでも、まどかは進行方向を見るフリをしながら、上目使いにちょこちょことチャーリーへ視線を走らせた。肩先へ届くサラサラの黒い髪、太く濃い眉毛、切れ長で黒目がちの瞳に通った鼻筋、そして笑顔が似合いそうな大きな口元、身体のパーツどれひとつ取っても申し分ないカッコ良さだ。彼女なんて高望みはしない、せめて友達でもいい、そんなまどかの思いをよそにバスは通学路をどんどん進んで行く。すでにアナウンスは次の停車場を案内し始めていた。その時、チャーリーの隣に立っていた会社員風の男が降車ボタンを押そうとして、チャーリーの身体にぶつかった。その拍子にチャーリーの本に挟まれていた栞が、木の葉が舞うようにヒラヒラとまどかの靴の上へ落ちてきた。ええっ、どうしよう!と心の中で呟きながら、まどかはすかさずしゃがみこんで栞へ手を延ばした。そこへ栞を拾おうとしたチャーリーの指先に触れ、「あっ、ごめんなさい」とまどかは思わず手を引っ込めた。「なんで謝るの、拾ってくれようとしたんだから、すみませんって言うのは僕の方じゃない?」「そう言われたら、そうかも」「そうだよ」と言って白い歯がこぼれたチャーリーと初めて視線を交わし、まどかの心臓は壊れそうなくらい早くなる。「じゃあ、また明日」と、チャーリーは園学高校前で降りて行った。頭の中で繰り返し再生されるチャーリーの声。走り出したバスの中、チャーリーの後ろ姿が見えなくなっても、まどかは窓の外をずっと見つめて、チャーリーに触れた指を握りしめていた。

学園モノがマイブームになっていて、前作に引き続き高校生の女の子が主人公の話を書いてみました。興味を持って読んで頂けましたら横の黄色いバナーをクリックしてくださいますようお願い致しますm(*_ _)m

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2008年7月11日 (金)

桜木クンのボタン

 桜木クンと初めて話をしたのは高校一年の時、体育祭のフォークダンス。手をつなごうとして、どういうわけか桜木クンの手を爪で引っ掻いちゃって「ごめんね」と言ったら、「おまえは猫かよ」って笑われた。桜木クンとは同じ学年のクラス違い、だから顔しか知らない間柄。次に話をしたのは駅ビルで買い物した時で、私が「こんにち」って言ったところで、桜木クンったらいきなり「なあ、腹減らないか、マック行くか」って。それから私たちは気が付けばいつも一緒に行動するようになっていて、そのうち、お互いがかけがえのない存在となっていった。あの頃は二人とも想いが最高潮熱くなっていたんだと思う。だから私が電話すると桜木クンは決まって「おまえのこと考えてた」って答えたし、桜木クンから電話があると「いま、桜木クンにメールするか電話するかどっちにしようかって考えてたとこ」と答えるのが普通なくらい、しょっちゅう電話をかけたりメールを送りあった。放課後、桜木クンに家まで送ってもらうのも慣習になっていて、送ってくれた桜木クンを玄関の前で見送るのも慣習だった。夜さえ来なければ、桜木クンと一緒にいられるのに、夜の馬鹿!死んじゃえ!!と、そんなことに本気で腹をたてたりした。桜木クンと付き合うまで、男の子のことをこんなに好きになるなんて信じられなかったし、考えたこともなかった。私たちは付き合ってからずっと腕を組むのが精一杯だったけど、そこから進展したのは高校二年の秋、京都へ修学旅行に行った時だった。自由行動で二人が訪ねたお寺の境内、人一人いない。竹林の木漏れ日、蝉の声、水苔の匂い。私の心臓の音だけがうるさい。桜木クンは、何故かつないでいた手を離して私の正面に立ち、まっすぐこちらを見つめた。桜木クンの視線の先にある私の唇。私は「いいよ」のつもりで目をつむった。顔がほてって真っ赤になっているのがわかる。何秒か、何十秒か、よくわからないうち、唇に柔らかい感触があった。それからまた流れていく秒数・・・唇が開放された瞬間、息苦しさのあまり、はあっと息を吸い込んだら、二人とも同時だったんで大笑いしたっけ。「卒業したらまた来ようね」って、指切りして約束したのに、高校三年の春、桜木クンはすぐには会えないくらい遠い所へ引越し、私たちの気持ちも距離と同じくらいどんどん遠くなっていった。卒業式の日、桜木クンから、制服の第2ボタンが送られてきた。「おまえにもらって欲しい」と一言だけ書かれた手紙と供に。あれから15年経ったけど、今でも、桜木クンのボタンは私の大事な宝物、たぶん、これからも、ずっと・・・

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2007年11月 9日 (金)

恋心

 エミはベッドで寝返りを打つと、閉じていた眼を開けて時計を見た。午前2時35分。ベッドへ入ってから1時間以上経っている。あの時「エミ・・・離したくない」と言った爽太の声。思い出さないようにすればするほど鮮明に蘇ってくる。婚約者の爽次から兄の爽太を紹介された時、画家を目指していると熱く語る爽太にいつしか共鳴していた。エミは両親の反対で美大ではなく、ミッション系の大学へと進んだいきさつがあった。だから爽太が二科展へ出品するため、ぜひ絵のモデルになって欲しいと言われた時は喜んで承諾した。
 春色の公園、ベンチに座わり本を読むエミ。その姿をキャンバスへ描く爽太。二人だけの静かな時間が流れて行く。本をめくるエミの指先にも、スカートの裾にはらむ風にも、爽太の視線が一部の隙もなく注がれている。エミは爽太に見つめられているだけで安堵が満ちてくるのを感じた。爽太と話をするのは、送ってもらう駅までの道すがらだけだったが、いつも決まって話すのはエミで、爽太はエミの話に最後まで耳を傾け相槌を打つ。話し始めるとすぐに結論を出し、結局は話を聞いてくれない爽次とは大違いだ。爽太といる間中、エミは心地良さを感じていた。それが先週のあの日、駅の近くまできたところでエミはいきなり爽太に抱きしめられた。「好きだ」エミの耳元に爽太の声が響く。背中に回された爽太の腕の温もりがエミの体の芯に伝わってくる。「エミ・・・離したくない」力を込めて抱きしめる爽太の胸にエミは顔を埋めた。そしてどちらからともなくラブホテルへと向かった。
 エミはその翌日から公園へ行くのはやめた。爽太とはそれっきり会っていない。爽太に会いたい。会って爽太の胸に飛び込みたい。爽太への想いだけが胸の中で空回りする。明日の結婚式は、オーダーメイドで作ったシルクサテンのウエディングドレス、エミの好きなチューリップをあしらったブーケ、小粒のピンクダイアモンドが埋め込まれた結婚指輪、そしてタキシードに身を包む爽次と誓いのキスをするだろう。それでもいい、爽太と会えるのだったら。「だって好きなんだもん」エミの声が夜の闇に溶けて行った。

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2007年7月29日 (日)

選挙の日

 嫌なオヤジ、それが茜の第一印象だった。勤め先の会社の社長から、親戚が県議会議員選挙に出るから選挙事務所を手伝って欲しいと言われ、社長と一緒に事務所へ挨拶に行った。応接室には、中性脂肪が詰まって弾けそうな腹をした現職の議員がソファに脚を組み煙草をふかしていたが、茜が入っていくと彼女の頭から脚まで物色するように眺め回した。思わず茜は「このエロジジィ」と叫びたい気持ちとは裏腹に「宜しくお願いします」と無表情で頭を下げた。茜が今の会社に入ったのは二ヶ月前。まだ試用期間中だ。高校を卒業後、八年勤めた地元の会社が倒産し、ハローワークで紹介された会社は年齢を理由に次々と断られ、父の知人から紹介されて入社した経緯があった。エクセルとワードがそこそこ使える事務経験しかない茜にとって、嫌なことがあるからと言ってもそう安々と辞める訳には行かなかった。都会と違って田舎の就職口は少ないからだ。
 選挙事務所での茜の仕事は、ウグイス嬢と言っても五十は過ぎているおばさんと、学生の女子らと選挙カーに乗りこみ、地元の工場や企業を回っては出迎えてくれる人と握手をしながら「宜しくお願いします」を連呼する。ただそれだけの仕事だったが、毎日数百人との握手で白い手袋はすぐに黒ずみ、握手のし過ぎで右手が腫れ、頭を下げ過ぎて首が痛いと思わぬ不調をきたした。おまけに朝の八時から夜の八時まで拘束され、昼食も夕食もおにぎりとたくあんに梅干しと言う粗末さで、「対立候補の事務所の方じゃ、すごい御馳走を出すんだって。あっちで手伝えば良かったよな」とこぼすスタッフもいたほどだ。茜は、我慢だ、辛抱だと言い聞かせながらなんとか一週間持ちこたえた。最終日、議員は「必ず私に投票するように」と念を押し、「君たちも私の手伝いが出来て光栄だと思いなさい」とねぎらいの言葉一つかけてはくれなかった。
 翌日の選挙の日、茜は朝起きてすぐ投票所へ向かった。投票用紙の前で議員の名前を何度も確かめエンピツを手に取る。「どうかアイツが落選しますように」と願いを込めて、対立候補者の名前を書きこむと、晴々とした気持ちで用紙を投票箱へ入れた。

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2007年6月13日 (水)

初デート

 デートが終わって家へ帰ると、待ち構えていたように携帯が鳴った。友だちの佐織だ。
「よっ、お疲れ。カスミから聞いたよぉ、あんた未成年とデートしたんだって?」
 まったくカスミも口が軽いんだから。うん、まあねと言葉を濁す。カスミといい、佐織といい、何かにつけて「未成年」だと騒ぎ立てる。
「何もったいぶってんのよ、19歳の彼とどんなデートしたのか話なさいよ」
「佐織、ちょっとそれって命令?」
「だって最近、まれにみる面白そうな話だし」
「彼がね『新宿にいいところがあるから連れていってあげる』って言うの。それで、『どこ?』って聞いたら『着いてからのお楽しみ』って言ったから付いて行ったのよ」
「えっ、それってなんかやばそうな展開。で、どうなったの?」
「何もないって。あーあ、これだから大人の女は嫌だねぇ。彼は純情無垢なんだから」
「何が純情無垢よ、今ドキの子でそんなわけないじゃん。イヒヒヒヒ」
「今の笑い、魔女みたい。ともかく、新宿へ行ったら『人生で一番エキサイトする場所なんだ』って言ってゲーセン連れて行かれて、ごはん食べてバイバイしただけ。はい、デートの話はこれでオシマイ」
「ええ、何それぇー。 信じられなーい! で、次はいつ会うの?」
「決めてない。また今度ねって、次の約束はしないで別れたから」
「ひゅー、大人の余裕なんか見せちゃって。次のデートの時もちゃんと報告してよね」
 了解、了解と佐織の電話を切ると、また携帯メールを開いた。「ヨウコさん、今日は楽しかったです。また付き合ってください。おやすみなさい」にハートの絵文字マークが続いている。何度読み返しても口元が緩んでしまう。この新鮮さからはきっと逃れられないんだろうなと感じながら、コンビニで買ってきたおでんカップのフタを開けると、美味しそうな匂いが立ち込めた。

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2007年1月21日 (日)

意中の彼

 私は彼の細くて長い指先を見つめた。白地にピンクのバラが描かれているティーカップに置かれた彼の指。「どうしたの?」そう問いかけられて顔を上げると彼が微笑んでいる。私はどぎまぎしながら「ううん、なんでもない」と答え、ティーカップの紅茶を一口啜った。彼と一緒に過ごしている、この時間があまりにも自然過ぎて信じられない。私のそんな気持ちに気づかない彼は、社員旅行の話の続きを始めた。前にも聞いた気がしたが、同僚の誰かも似たような話をしていたから、単なる私の勘違いかもしれないと思い、口には出さなかった。私は社員旅行には行ってない。だけどなんで社員旅行に行かなかったのか。行かない理由があったはずだった。それがいくら考えても思い出せない。そのうち思い出すかもしれない。今はただこうして彼の側にいられる幸せに浸っていよう。そう思うことにした。彼の声は川のせせらぎのよう。穏やかな旋律となって心にじんわり沁みてくる。私の心に芽生えるナチュラルな気持ち-「好き」。このまま二人の時間がいつまでも続いてくれたらどんなに素敵なんだろう。彼は突然、私の手に彼の手を重ねた。「女の子の手って柔らかくていいな」その瞬間、全身がカブトムシのように固くなった。嬉しいのに素直に嬉しくなれない。使い回された口説き文句に聞こえてしまったから。私はまったくどうかしている。いくら彼がモテるといったって、疑心暗鬼になっていたら、せっかくの彼との時間が台無しだ。こんな時、「もしかして他の女の子にも同じこと言ってるんでしょ」とさらりと笑って言えたらいいんだけど、いつも核心にズバッと真顔で攻め込むしか出来ない私が難易度の高いワザを中途半端に使ったら永遠に彼を失いそうな気がして、ぐっと堪(こら)えた。つくづく損な性格だと思う。彼は私の手を握りしめた。「好きだよ」その一言でさっきまでの疑心暗鬼がスッと消え、ふんわりとした穏やかな気分が戻ってきたら、なんだか眠気を催してきた。ドイツで飲んだ泡だらけのビールの話、それは研修旅行の話だなと思いながら眼を閉じる。眠っちゃいけない、彼の話は聞かなきゃ・・・と、思ったままストンと眠りに落ちていった。眼を開くとベッドにいた。目ざまし時計のアラームが鳴る5分前。カーテンの隙間から朝の陽が差し込んでいる。片思いの彼との甘い夢を思い出しながら、私は目覚めてしまった残念さを振り切るようにベッドで大きく背伸びをした。

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2006年10月13日 (金)

獲物

 蒸し暑い夏の夜。その男は以前から変質者が出没すると噂のある場所へ向かっていた。私鉄沿線の駅前通りを進むと道は二つに枝分かれしていたが男は迷わず右手へ折れた。道の両側には一戸建ての住宅が連なるように続いている。男は電柱にかけられた看板の「目撃情報を捜しています!」を読み、フッと鼻で笑った。目当ての建設中の大型マンションはすぐそこにあった。男は周囲に人気のないことを確認すると、マンションの工事現場入り口になっているプレハブの扉の前へ進んだ。扉にかけられているのは安物の小さな錠のみだ。男は持ってきたスパナで錠が留められている金具をねじ切ると金具は簡単に壊れた。マンションの中はコンクリートが打ちつけられたばかりでセメントの匂いが充満していた。鼻につく匂いだが我慢できないほどでもない。マンションの内部をざっと物色した男は入り口へ戻ると扉を少しだけ開き、外の様子を窺(うかが)った。そろそろ最終電車から降りた乗客が通る頃だ。男はスパナを握りしめ、衝動が昂(たか)ぶってくるのを感じながらもじっと身を潜(ひそ)めた。しばらくして、どこからか犬のけたたましい鳴き声が聞こえてきたかと思うと、遠くの方からコツ、コツと足音が響いてきた。あの音はハイヒールを履いた女だな。男はにじんでくる額の汗を腕で拭(ぬぐ)うと、足音が近づいてくるのを息を殺して待った。コツ、コツ・・・ハイヒールの足音が男の方へ近づいてくる。男はタイミングを見計(みはか)らった。5、4、3、2、1---「今だ!」男は扉から勢いよく飛び出すと、目の前で立ちすくむ女の腕を矢継ぎ早につかみ、力一杯に身体を引き寄せてマンションの中へ連れ込むと、女の身体をコンクリートの床へ押し倒した。「騒ぐと殺すぞ」男はスパナを振りかざした。すると女は突然、嘲笑(あざわら)うかのような甲高い笑い声を発した。「何がおかしいんだ」男は暗がりの中、眼を凝(こ)らして女の顔を見つめた。そこにいるのは平凡な顔つきの若い女だ。だが一部分が違っていた。真紅の口紅に塗られた唇が耳の付け根まで裂けている。「うっ」男は慌てて逃げ出そうとしたが、どうしたことか身体が硬直してまるっきり動けない。口の裂けた女の顔は男の方へどんどん迫ってくる。男は戦慄のあまり顔を歪め、鳥肌の立った身体を震わせた。女は紅く裂けた唇を舌でペロリと舐め回すと輝きに満ちた瞳で男を見つめた。「助けてくれぇー」男の叫び声がマンションに空しく響きわたった・・・。

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今回は初めてクライムとブラックとホラーをドッキングして書いてみました。こちらも小説ランキングに参加していますので、もし面白いと思われましたら猫をクリックして投票して頂けますようお願い致します!

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2006年10月 5日 (木)

再会

 青森から甥っ子が上京するというので東京駅へ出迎えに行った舞子は、駅構内で擦れ違う人、また人の波に息苦しさを覚えた。さすがに夏休みだ。予定の時刻より早く来過ぎたのを後悔する。舞子は仕方なく構内の柱へ寄り掛かると、携帯を握りしめてぼんやり東北新幹線の改札口を眺めていた。そこへ突然若い男から「こんにちは!」と声をかけられ、えっ?まさかナンパ!と嬉しさに心臓をドキリとさせ、軽く微笑みを作って視線を上げると、甥っ子の辰也が意味ありげに笑っている顔を見て、思わず唇をぎゅっと結んだ。
「おやー、舞子おばさん。ひょっとしてナンパされたかと思って期待したんだろ?」
「ふん」と言って舞子は視線をそらした。それにしても辰也は三年会わないうちに身長が10センチ近く伸び、ヒゲが生え始め、かつてのイタズラ小僧の面影すらない。
「隠さなくっていいよ、図星なんだろ。舞子おばさんってわかりやすい性格だからな」
と、笑う辰也の肩をコツンと小突くと、舞子は他人の振りをして一人歩き出した。
「怒るなよ、可愛くないな」
「別に怒ってなんかないわよ。毎回あんたを出迎えに来るのが面倒くさいだけ」
「そんなこと言っちゃって。本当は俺といると楽しいくせに」
「まさか、冗談でしょう。あんたと一緒にいる位なら家でゴロゴロしてる方が・・」
 舞子はそう言いかけて身体を強張らせた。前方から若い女と手を繋(つな)いで歩いてくる元彼の姿がある。よりによってこんな日に会うなんて、と顔を背けた舞子にいきなり辰也が腕を組んできた。「ちょっと!?」と驚く舞子に「いいから、彼女っぽくしなよ」と辰也が優しく微笑んだ。舞子が辰也と腕を組んだまま歩き出すと、すぐ近くまで来た元彼も舞子に気づいたようで、おや?とばかりに眉毛を持ち上げると、連れの辰也を見てギョッとした顔つきになり、舞子を一瞥するとそのまま通り過ぎて行った。
「やったね、舞子おばさん。大成功だろ?」
「子供のくせに変な気を回すんだから」
「よく言うよ。まあビッグマック2個でチャラってとこかな」と言う辰也の肩を「コイツ!」と軽く小突くと、舞子はふっと笑った。

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久々に掌(たなごごろ)小説を書いてみました。面白いと思われましたら猫をクリックして是非投票して頂けますようお願い致します!

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